平谷村の昔話 実話と伝説

2024年5月 5日 (日)

平谷村 キモ取り事件

1931年10月22日の事。

平谷村の中心から6キロほど川下にある『海』と名のつく当時10軒ほどあった集落。

国道418号線沿いに流れる平谷川。

西は岐阜県、東は長野県という山深い県境です。

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ここからカクゾウ少年は平谷小学校までかよっていました。

その日は授業が終わったあと親戚の家に寄り、ダイコンを持って帰る途中でした。

木の陰に悪い男と仲間が隠れているとも知らずに・・・・

この男は山奥の製材所で働いており、長い間「性病」で苦しんでいました。

「サル年の男の子のキモを食べると治るらしい。」

そんな迷信を信じ、サル年のカクゾウ少年を付けねらっていたのです。

「ぼうや、魚のいるところを教えてくれんか?」

そう言って近づき、川ふちの木の茂った場所に引きずり込まれてしまったのです。

男は仲間と二人でカクゾウ少年を縛り上げ気絶させました。

そして男は持っていた「サビたカマ」でカクゾウ少年のお腹をかき切ったのです。

あたり一面、血がほとばしり、驚いた男の仲間は逃げ出しました。

男はキモを取り出し口を真っ赤にして食べました・・・まるで獣のように。

現場から30m先の崖に放置されていたカクゾウ少年が発見されたのは3日後で、衝撃と苦しみで目を見開らき木にしがみついたまま硬くなっていたそうです。

翌日から警察や消防団が犯人を捜し始めましたが見つかりません。

村民も一人残らず調べられ、特に疑わしい人は拷問にかけられたほどの騒ぎでした。

3ヶ月後、岐阜県から愛知県まで逃げ回っていた男と仲間は逮捕され、2人とも死刑に処せられたといいます。

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現場近くの国道沿いに、カクゾウ少年の地蔵様が祀られています。

村民は俗に「大根地蔵」と呼んでいます。

 

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2024年5月 4日 (土)

平谷村の事件現場 さんころりん

これは実話です。

治部坂峠から平谷側に下ったところ。

二つの道があったので「二筋道」と呼ばれていました。

この場所で江戸時代に大変奇妙な事件が起こりました。

1度に3人の若者が死んでいたのです。

検証その① 3人とも30才代の体の大きな若者

検証その② 裸で縛られる

検証その③ かぶっていた「すげ笠」は死体のそばにあったがモモヒキは50mもはなれた谷間に捨られる

村人が発見したのは殺されてから何日もたっていたため、体の肉は獣に食われ無残な状態で犯人もつかまりませんでした。

この事件を境に、この地名を「三(さん)ころりん」と呼ぶようになりました。

 

さらに何十年後・・・

若い女の人が嫁ぎ先に戻るのがイヤで、平谷の実家からかつての職場の製糸工場へ行こうとこっそり家を出ました。

峠を越えようと急ぎましたが、男が後をつけて来ます。

「三ころりん」の谷まで来た時、男は女の人の首を絞め強姦しお金を盗んだのです。

女の人の死体は草むらに放置されていて、相当に抵抗したらしく右手には草をにぎっていました。

不審者の目撃証言もあり、犯人はつかましました。

他に3人も殺人を行っていた犯人は、大正8年2月「強姦強盗殺人およびサギ罪」で死刑を言い渡されました。

犯人は28才くらいで面長色白鼻筋の通り一見して「いろ男」であったようです。

 

そして2001年・・・

借金の返済をせまられたという理由で、元上司が元部下を車の中で首を絞めて殺害してしまいました。

賭け事などで多額の借金があったようです。

殺害現場になったのが、「三ころりん」の治部坂峠です。

遺体は静岡県の雑木林に放置されていました。

裁判で無期懲役の判決が下っています。

 

「さんころりん」の近くは自動車事故が非常に多く、何人か自殺者も出ています。

目に見えないなにかが不幸をまねく不思議な場所です。

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2024年5月 3日 (金)

平谷村の勝負師 明五郎

今から300年ほど前なので江戸時代の話です。

自宅「松野屋」は、何代も続いている家系。

現在は新築しましたが、私が嫁いで来た時は100年以上前に建られた古い大きな家でした。

宿場町だったので宿屋を経営。


「明五郎」(←漢字は当て字)という人が「松野屋」に泊っていました。

昔の楽しみといったら賭け事。

しかし、お金をかけた勝負は禁止されています。

「松野屋」には役人が来たら隠れられる「ムロ」(一坪ほどの地下室)があり絶好の賭博場でした。

明五郎はとても賭け事が強く、そのせいでトラブルが発生しました。

お侍さんなので「刀」をさしています。

昔の家(特に2階)の天井は低く、明五郎の抜いた刀が天井に刺さってしまったのです。

その隙に斬られて殺されてしまいました。

お客様というだけの縁ですがお墓を建てました。

「賭け事が強かった」ので「勝負の神様」と言われていたとか。

長男である主人は何度もここに来ていますが・・・

勝負はトコトン弱いです。

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2024年5月 2日 (木)

平谷村の偉人 林芋村先生

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『深雪(みゆき)せる野路(のじ)に小さき沓(くつ)の跡(あと)われこそ先に行かましものを』

平谷から売木に向かう国道148号線沿いにこの歌を刻んだ歌碑があります。

平谷湖の近くに住みながら、平谷の学校で先生をされていたのが「林 芋村」でした。

この歌は・・

「深い雪の降った朝、自宅から学校へ行く時、先に行った子供達のワラ靴の足跡を見つけ、子供達への愛情と自分を責める気持ち」を詠んだもの。

林先生の逸話を紹介します。

【校長室の窓ガラス】

ある秋の昼休み、学校の狭い校庭で大勢の子供が遊んでいる時。

ガチャーン

校長室の窓が大きな音とともに割れました。

「おい!そこの子供!ここに来い!」

校長先生が割れた窓を開け、大声で怒鳴りました。

「お前は何年だ!名前は何と言う!自分の名前が言えないか!」

その声はますます大きくなり、割ってしまった子供はおびえていました。

その時、林先生は校長室の窓の下まで来ると、怒りに満ちた表情で言いました。

「校長先生なんですか!生徒の名前も学年も知らないで!それで注意や世話ができますか!」

唇をふるわせて抗議したのでした。

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林芋村先生は、千代(飯田市)に生まれ大正4年(1915年)より平谷で代用教員となり、15年間教鞭をとりました。

生活はとても貧しく、年老いた母親と子供を養育し、畑を開墾しながら教育に情熱をそそいでくれました。

独学で「万葉集」を学び、短歌を詠んでいたようです。

そして昭和4年4月3日植林中に、太い古木の下敷きになり44歳の若さで亡くなったのでした。

その10年後、教え子たちが「10銭」ずつ出し合ってお墓の碑を建てました。

また「深雪せる・・・」の碑は、林先生が亡くなった3年後に同僚だった『西川繁次郎先生』が、林先生の人柄を残そうと当時のお金で15円(今なら20万円位)の石碑を建てたということです。

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『深雪(みゆき)せる野路(のじ)に小さき沓(くつ)の跡(あと)われこそ先に行かましものを』

昭和58年にこの詩に曲がつけられ、三部合唱になりました。

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昭和61年12月に国道の改修工事が行われた時に移転し、説明の立看板が現在の場所に建てられました。

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2024年3月26日 (火)

平谷村の伝説 竜にとりつかれた雲谷寺の鐘

いままでのホームページが閉鎖されるのでブログに記事を移しています。

カテゴリー【平谷村の昔話 実話と伝説】にまとめます。


昔、雲谷寺(うんこくじ)に観牛(かんぎゅう)という和尚さんがいたころのお話です。

観牛和尚は三河の惣右衛門(そうえもん)に頼んで雲谷寺の鐘を作ることにしました。

村の人たちは、初めてお寺に鐘が出来るというので、大切にしていた金物をお寺へおさめにやってきました。

その金物類は、馬10頭で運ぶほどもあったといいます。

出来上がった鐘は、上品な形をしており、その音色は、うっとりとして我を忘れるほどの美しさでした。

観牛和尚は、さっそくお供を連れて鐘を受け取りに行きましたが、その帰り道、寒狭川(かんさがわ)を舟で渡ろうとしたところ、川の真ん中まで来たとき、舟はピタリと止まってしまいました。

そして、あたり一面に重苦しい空気がただよい始めました。

この怪しげな様子に気づいた観牛和尚は、舟のへさきに立って、大数珠(じゅず)をサラサラと揉みながら、お経を唱えました。

やがて、数珠を一振りすると、中糸が切れて、数珠が水中に飛び散りました。

すると、不思議にも、舟は動き始め、鐘は無事に運ばれて行きました。

舟を止めたのは、美しい鐘に取り付いた、寒狭川に住む竜の仕業で、この竜は、なお鐘に未練を持ち、それから後は、雲谷寺のお寺淵に住みついたといいます。

「竜池山(りゅうちざん)雲谷寺」という名も、そこから出ているそうです。

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引用:平谷村教育委員会 わが村の文化遺産


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