平谷村の偉人 林芋村先生
『深雪(みゆき)せる野路(のじ)に小さき沓(くつ)の跡(あと)われこそ先に行かましものを』
平谷から売木に向かう国道148号線沿いにこの歌を刻んだ歌碑があります。
平谷湖の近くに住みながら、平谷の学校で先生をされていたのが「林 芋村」でした。
この歌は・・
「深い雪の降った朝、自宅から学校へ行く時、先に行った子供達のワラ靴の足跡を見つけ、子供達への愛情と自分を責める気持ち」を詠んだもの。
林先生の逸話を紹介します。
【校長室の窓ガラス】
ある秋の昼休み、学校の狭い校庭で大勢の子供が遊んでいる時。
ガチャーン
校長室の窓が大きな音とともに割れました。
「おい!そこの子供!ここに来い!」
校長先生が割れた窓を開け、大声で怒鳴りました。
「お前は何年だ!名前は何と言う!自分の名前が言えないか!」
その声はますます大きくなり、割ってしまった子供はおびえていました。
その時、林先生は校長室の窓の下まで来ると、怒りに満ちた表情で言いました。
「校長先生なんですか!生徒の名前も学年も知らないで!それで注意や世話ができますか!」
唇をふるわせて抗議したのでした。
林芋村先生は、千代(飯田市)に生まれ大正4年(1915年)より平谷で代用教員となり、15年間教鞭をとりました。
生活はとても貧しく、年老いた母親と子供を養育し、畑を開墾しながら教育に情熱をそそいでくれました。
独学で「万葉集」を学び、短歌を詠んでいたようです。
そして昭和4年4月3日植林中に、太い古木の下敷きになり44歳の若さで亡くなったのでした。
その10年後、教え子たちが「10銭」ずつ出し合ってお墓の碑を建てました。
また「深雪せる・・・」の碑は、林先生が亡くなった3年後に同僚だった『西川繁次郎先生』が、林先生の人柄を残そうと当時のお金で15円(今なら20万円位)の石碑を建てたということです。
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『深雪(みゆき)せる野路(のじ)に小さき沓(くつ)の跡(あと)われこそ先に行かましものを』
昭和58年にこの詩に曲がつけられ、三部合唱になりました。
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昭和61年12月に国道の改修工事が行われた時に移転し、説明の立看板が現在の場所に建てられました。
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